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火垂るの墓の舞台を訪ねる
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石屋川のほとりに建つ、火垂るの墓の碑…(神戸市灘区)
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4歳と14歳で生きようと思った…
このキャッチコピーを考えたのは、コピーライターの糸井重里氏だそうですが、
アニメ映画『火垂るの墓(ほたるのはか)』が公開されたのは1988年4月。
となりのトトロと同時上映だったので劇場で見たことある人は多かったことと思います。
このアニメ映画がモデルとなった小説は野坂昭如原作の「火垂るの墓」で、戦中戦後の神戸と西宮が舞台。
第二次大戦末期の昭和20年(1945年)6月5日早朝に神戸市から阪神地方を襲った大空襲により母親を亡くし、
14歳の兄と4歳の幼い妹は西宮に住む遠縁の家に疎開するものの、しばらく後に遠縁の家を出て、
近くの池の横穴に兄と妹二人の生活を始めます。
しかし戦中戦後の食糧難のために妹は栄養失調が元で死に、
その1ヶ月後、兄も駅の構内で眠るように餓死してしまいます。
この小説が発表されたのは1968年でした。それから20年後の1988年にアニメとして映画化された訳ですが、
恥ずかしながら私は、同時上映されていた「となりのトトロ」は知っていたものの、
火垂るの墓がアニメ化されていたことは当時、全然知りませんでした。
火垂るの墓はアニメ化されて初めて知ったという人が大多数かと思われますが、
私は多くの人とは逆に小説を最初に読んでいました。
しかし、この小説を読んだのはまだ小学生だった1978〜79年頃で、この小説自体が短かったことと、
野坂昭如という作家のことをよく知らなかったこと…だいぶあとになって、
サントリーのCMの「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか〜」のおじさんだということを知った(このCMを知ってるのも30代後半以上の人かな?)。…
それにまだ自分が幼かったこともあって、小説の内容には全然ピ〜ンとこなかったのです。
上映から3年が過ぎた91年になり、たまたまレンタルビデオ店を覗いていると「火垂るの墓」のビデオが置かれていて、
それで初めてアニメ化されていたことを知ったという次第…。
自分が小学生の頃に読んだ小説のアニメ化、いったいどんなものなのか借りて見てみることにした。
とにかくスゴイ…。言い知れぬ衝撃が伝わる…。小説の舞台となっている戦時中の神戸(御影)の風景がリアルに描かれ、
また、疎開することとなる西宮、特に夙川の描写が感動的だった。
とにかく、他の人が感じたようにアニメを見て、小説では感じ得なかった火垂るの墓の凄さと言うかリアルさに、
物凄い衝撃が自分自身に伝わってきたのです。
私は小説やドラマを見て、その舞台を訪ね歩くのが趣味みたいになっているので、今回、火垂るの墓の舞台をぐるりと巡って見ることにしました。
小説を読みながら、または火垂るの墓のビデオ・DVDをお持ちの方は、その映像を見ながらでもこれを読んでみてください。
なお、ここに掲載している写真は1999年撮影、2003年撮影、2004年に撮影のものが混在しています。
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国鉄(現JR)三ノ宮駅
昭和20年9月21日夜、僕は死んだ…。
このセリフから始まる火垂るの墓の最初のシーンは駅のコンコース。
人々の雑踏の中、柱にもたれ掛かっている一人の少年。
清太は、国鉄(現JR)三ノ宮駅のコンコースで他の戦災孤児たちとともに、
誰にも看とられることなく、ひっそりと死んでしまいます。
現在の三ノ宮駅は、昭和56年(1981年)に開幕されたポートアイランド博覧会(ポートピア81')に備え
その前年から駅ビルの建設と駅構内が改装されたこともあり、
一見すると当時の面影は残っていないようなのですが、
駅のコンコースの天上や円柱は昭和初期のままの雰囲気が残されています。
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阪急三宮駅
アニメの中では、清太と節子が電車に乗るシーンがありますが、
最初に登場する駅と電車は阪急三宮駅から発車する阪急電車です。
昭和11年(1936年)に建てられた古い駅ビル(神戸阪急ビル)は長らく神戸を代表する建造物として親しまれてきましたが、
95年の阪神大震災で大きな被害を受けたために取り壊され、
現在の阪急三宮駅ビル(神戸阪急ビル)は現在も仮設ビルのままです。
また、アニメに登場していたあのタイプの電車は、昭和50年代半ば頃まで
阪急電車の支線を中心に走っていましたので私も記憶にありますが、
ちょっと車長が短いのが気になりました(笑)
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御影公会堂
一息ついて川縁から土手を上がった清太と節子。
回りが空襲で焼き尽くされてしまい唖然とする。
向こうには公会堂の建物が焼けずに残っています。
さて、この公会堂とは現在の御影公会堂です。
昭和8年に御影町公会堂として建設され、
昭和13年の阪神大水害、戦災、95年の阪神大震災と、
3度の大災害にも耐え抜いた築70年を超える古い建造物です。
空襲のあと、母親との待ち合わせ場所にもなっていた御影公会堂裏の二本松に向かう清太と節子。
しかし、ここでは母親に出会えません。
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公会堂裏の二本松
母との待ち合わせ場所にしていた二本松。
だいたいこのあたりかと思われるけれど、一際目立つような松の古木は一つもありませんでした。
ところで、自転車に乗った警防団の男性が「上中、上西、一里塚の皆さん〜、」と
呼びかけているシーンがありますが、清太と節子が住んでいた御影町の上中と
上西は先にも書いた現在の御影本町6丁目と8丁目、一里塚は御影小学校横・現在の御影中町7丁目です。
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御影小学校
公会堂裏で警防団の男性が「国民学校へ集合してください」と呼びかけています。
その国民学校とは当時の御影町立御影国民学校で、現在の神戸市立御影小学校です。
写真は御影小学校の南側の現在は使われていない校門。これは昔からの校門です。
空襲のあと、清太と節子は救護所になっていたこの国民学校に行き、
ここで変わり果てた姿の母と対面することになります。
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ところで、以前からこの御影小学校が救護所になっていた…という文章を写真とともに載せていたのですが、
ずっと以前に私のページを見たある方から、「火垂るの墓の舞台になった小学校は御影小学校ではなく灘区にある成徳小学校だ」という指摘がありました。
このメールを貰った時は、何でこんなことを言い出してくるのか、「はぁ…?」と言うしか無かったのですが…というのも、
アニメではただ「国民学校」としか言っていないけれど、小説にはちゃんと「御影国民学校」と記されてあるのに、
それで御影小学校ではない、成徳小学校だ…なんて言うほうがおかしい訳で…。
上中、上西、一里塚の住民をすぐ近くの御影小学校ではなく、隣接市にある成徳小学校に集合させるわけがないし、
確かに舞台は御影小学校で間違いはないわけですが、
アニメに出てくる小学校の建物は、どうやら成徳小学校をモデルにしたんだという話をある方から聞きました。
現在の成徳小学校の校舎は建て替えられており面影はありませんが、旧校舎とアニメに出てくる小学校を比較するとソックリでした。
成徳小学校の旧校舎の写真は成徳小学校のホームページで見ることが出来ます。
なぜ、成徳小学校をモデルにしたのかよくわからないのですが、成徳小学校はなんと、火垂るの墓の作者である野坂昭如の出身小学校でもありました。
というわけで、アニメの校舎のモデルは成徳小学校でも、
小説の中に登場するのは御影小学校(当時の御影国民学校)です。
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阪急夙川駅
神戸の三宮から電車に乗っていた清太と節子。2両編成の電車がホームに止まり、
2人は駅を降り立つこの駅は阪急電鉄の夙川駅です。
この駅は昭和30年代には改築され、さらに昭和50年代に入ると駅前再開発に従い、
近代的な駅舎になり、駅前も大きく変わりました。よって昔の面影は全く残っていません。
この駅から、清太と節子は満池谷に住む叔母さんの家へ向かいます。
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阪神国道(国道2号線)
さて、西宮の叔母さん宅に世話になった清太と節子。叔母さん宅に来た翌々日、
自宅の庭に埋めていた食料を掘り出し、周囲が焼け野原になった広い道を通ってリヤカーを引く清太。
そこは阪神国道(国道2号線)で、清太の家があった御影から西宮の叔母さん宅まで約10キロ足らずの道のりです。
ちなみに原作によればリアカーではなく「大八車」になっています。
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夙川沿いの道
ある日、清太と節子は、海へ行こうと言うことに…。
夙川の堤防に上がると、そこは芋畑になっていてビックリ。
そして二人は海岸へ向かって歩き始めるのです。
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阪神国道と夙川橋
途中、路面電車が走る夙川橋にぶち当たります。
ここは阪神国道(国道2号線)で、路面電車は当時、大
阪の野田と東神戸間を走っていた阪神電鉄の国道電車(国道線)です。
この国道電車は昭和49年に上甲子園−西灘間が廃止され、
昭和50年には全線廃止になっています。
地元の人でも、若い人たちの中には、
この道路に路面電車が走っていたことなど知らない人も多いことでしょう…。
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香櫨園浜
清太と節子が水浴びをし、駆け回っている浜辺は「香櫨園浜」。
香櫨園浜は、明治末期から昭和40年まで、関西でも代表的な海水浴場の一つでした。
しかし、汚染のため海水浴場は閉鎖され、昭和50年頃から沖合の埋め立て工事が始まり、
産業団地と住宅団地が建設され、現在では海水浴場が開かれていた当時の面影は、
ほとんど残っていませんが、今はウインドサーフィンや、近くには堀江謙一氏の
「太平洋ひとりぼっち」の出発点でもあった西宮ヨットハーバーもあり、
阪神間のマリンスポーツのメッカとして親しまれています。
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西宮回生病院
小説の中にも何度か登場しています。
清太と節子が香櫨園浜を訪れ、そこからの帰り道、看護婦として働く女性と、
その女性の母親の対面シーンがありますが、そのシーンに登場するのが
この病院のこの玄関。
病院の本館は改築され、現在では玄関だけが往時を物語っています。
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ニテコ池
西宮の叔母さん宅の近くにある池は、満池谷の北にあるニテコ池のことです。
近所でお風呂をいただいたあと、清太と節子は池に立ち寄り、
たくさんのホタルに見とれてしまいます。
空襲警報が鳴ると一目散に池の横穴へ逃げ込む清太。
そんな清太に叔母さんは「そんなに命が惜しいのやったら横穴に住んどったらエエのに。」…と冷たい罵声を浴びせる。
そして清太たちは叔母さん宅を出て、二人だけで池のそばの横穴で生活を始めることとなるのです。
ニテコ池は西宮神社の土塀に使う土をここから運び出す時「ネッテコイ、ネッテコイ」と
かけ声をあげていたことから「ニテコ池」と名付けられたそうです。
阪神大震災ではニテコ池の護岸が大きく崩れる被害を受けました。
なお、現在のニテコ池では蛍の姿を見ることは出来ません。
また、ニテコ池周辺は戦前から関西の財界人の高級住宅街で、
池の西側(写真の左手のほう)には松下電器グループ会長宅をはじめとして
関西の財界人の御屋敷がいくつも立ち並んでいます。
アニメの中でも、「はにゅうの宿」の音楽が流れる中、
疎開先から戻ってきたお金持ちの家族の姿が出てきますが、
まさにそういう世界の人たちが住むような高級住宅街です。
清太たちが暮らしていたとされる横穴は、アニメの中の風景から推測すると池の南東側・
上の写真でいえば写真の右のほうにあったことになってるようです。
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大社中学校
さて、この何の変哲もない校舎、これがどーしたのかというと、
小説・アニメの最後のシーンに登場する重要な場面。
栄養失調で死んでしまった節子の遺体を焼いた場所がここ。
小説の中では、満池谷の北にある丘の上で焼いたことになっています。
満池谷の北にある丘と言うと、ここしかありません。
戦後、この地に中学校が建設されてしまい、丘だったという面影は
この写真の中ではわかりませんが、実際に行ってみると、地形からして丘になっていたということが
よくわかります。
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左の写真は、復元された古墳です。
大社中学校のグランドのすぐ横には、このような復元古墳があります。
まあー、この風景から、このあたりはかつて木々に覆われた丘になっていたんだなってことが
見て取れるでしょうか(^_^;)
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以上で紹介した「火垂るの墓ゆかりの地」をわかりやすくYAHOO地図情報でマップにしました。
[火垂るの墓ゆかりの地マップ]
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