さよなら 阪神パーク

戦前から戦後の話&レオポン

阪神パークの正面の建物。建物の2階はボウル阪神(ボウリング場) つい10年ほど前まで建物の色は確か青い色をしていたような…。


ゲートを入るとこんな感じ。この風景は昭和40年代末期とほとんど変わらないな〜。 ちなみに写真は閉園時間を過ぎてからの撮影。


戦前の浜甲子園阪神パーク
阪神電鉄が大正末期から進めた甲子園地域の開発は、野球場(阪神甲子園球場)の開設に始まり、 住宅地開発、テニスコートや運動場などのスポーツ施設の建設のほか、 昭和4年(1929年)7月には浜甲子園付近、現在は鳴尾浜公園や阪神甲子園球場の駐車場となっている一帯に、 温浴施設、運動施設、映画館などの余興施設を備えた「甲子園娯楽場」を誕生させます。 この甲子園娯楽場は敷地面積2万坪という当時としては広大な施設で、 これが阪神パークの始まりとなります。
その後、昭和7年には名称を「浜甲子園阪神パーク」と改称し、動物園と遊戯施設が増強され、 一大レジャーランドとして阪神間のみならず大阪や神戸からも大勢の家族連れで賑わったと言います。 昭和10年3月には阪神水族館が開設され、これは当時の水族館としてはトップレベルでした。 当時の阪神パークが誇れる物として、48羽のペンギンと、多数の猿を飼育した「モンキーアパート」があり、 この当時、ペンギンを飼育している動物園は名古屋の7羽以外は阪神パークにしかいないという珍しい物で、 多数の猿を飼育した動物園も他にはなかったそうです。
また、昭和11年にはゴンドウクジラを飼育するという、当時としては画期的なことも行われ、全国的にも注目されます。 しかし、戦争の影響は阪神パークにも暗い影を落とすこととなり、太平洋戦争の激化に伴って阪神パークは閉園となりました。 敷地一帯は海軍に接収され、隣接の競馬場と南運動場を含めた一帯は飛行場となり、浜甲子園阪神パークは消滅してしまいました。
阪神間でも数少なくなった自然海岸の残る甲子園浜の海岸では、
浜甲子園阪神パーク時代の建造物の基礎の残骸が所々に見られます。
入って少し歩くとフラミンゴたちがお出迎え。






園内の片隅にあるレオポンの碑


戦後再開された甲子園阪神パーク
戦争によって閉鎖を余儀なくされた浜甲子園阪神パークは昭和25年(1950年)4月、 甲子園球場の南東の現在地に移転し「甲子園阪神パーク」として営業再開することになります。
再開当初は応急的な物でしかなく、かつての浜甲子園阪神パーク時代の面影は全く無い状態でした。 年を重ねるごとに施設を充実させていき、昭和27年には「童話まつり」と題した最初の催し物を開催し、 以後、毎年春と秋には催し物を開催することで入園者の誘致を図っていきます。
阪神パークを世に知らしめることになったのは昭和34年の『レオポン』誕生でした。 レオポンは雄ヒョウと雌ライオンとの間に人工的に作らせた世界で最初の雑種猛獣で、 角界から注目を集めました。
園内の片隅にレオポンの碑があり、その文章を紹介します。
『昭和34年11月3日、当園で”ひょう”を父とし”ライオン”を母とする世界最初の珍獣”レオポン”2頭が生まれ、 さらに36年6月29日には3頭が生まれて世界中の注目を集めました。』
レオポンの語源
『ひょうを英語でLEOPARD(レオパード)といいますが、このLEOPとLION(ライオン)のONを合わせてLEOPON(レオポン)と名付けました。』
レオポンの特徴
体にはひょうの斑文があり、気性が激しく動作も機敏で子供の頃は木登りも出来ました。体つきはライオンに似て大きく毛色は薄く、雄にはたてがみが生えて、ライオンの風格を備えていました。』
レオポン豆知識
レオポンはヒョウを父に、ライオンを母に持つ雑種猛獣。 その父親の名は「甲子雄(かねお)」、母親のライオンは「園子(そのこ)」と、 二頭合わせて『甲子園』と、取って付けたような名前なので笑ってしまいますが、 レオポンを作り出す計画はレオポン誕生の4年前、昭和30年から始められ、 二頭の雄ヒョウと雌ライオンは幼い頃から同じ檻で同居させていたそうです。
そして昭和34年(1959年)11月には念願のレオポンが誕生し、 レオ吉(雄)・ポン子(雌)と名付けられました。これも取って付けた名前ですね(^^;
そして昭和36年(1961年)には、さらに3頭のレオポンが誕生し、 ジョニー(雄)、チェリー(雌)、デイジー(雌)と名付けられます。
その後、阪神パークでは昭和42年頃にトラとレオポンとの間に「タイポン」を作ろうという動きがあったものの、一代雑種で生殖能力が低かったことと、 さらに人工的に雑種を作り出すということに対する世間の風当たりが強くなったこともあり、こうした珍獣はその後、生まれることはありませんでした。
ちなみに私が子供の頃に見たレオポンは確か4頭だったのですが、すでにその頃にはデイジーが早くに亡くなっていたようで、 ポン子、レオ吉、チェリーと相次いで死に、その後は長らくの間「世界でただ一頭のレオポン」としてジョニーがレオポン舎に君臨していました。 レオポン1頭だけがいた時代は私もよく覚えています。そして昭和60年(1985年)7月19日、ジョニーは24歳の生涯をまっとうしました。 人間の年齢に換算すると112歳という超高齢だったそうです。


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